わたしの「好きだ」は、誰にも奪われない。。。

・「おもしろい」とか「好きだ」とか
 「うまい」とかいう感覚は、じぶんのものだ。
 「おもしろい」「好きだ」「うまい」は、
 じぶんで自由に決められるはずのものだ。
 だって、感じるのだから、感じたのだから。
 それが他の人びととおおいに違っていて、
 笑われたなら笑われればよい。
 同意を得たならば、それもそれでよい。
 しかし、ほんとうに自由に、
 それができている人は、あんまり多くない。
 
 (わたし)が「おもしろい」と感じて、
 (あなた)が「おもしろくない」と感じたとしたら、
 それは、たがいに「そっか」と思えばいいことだ。

 まわりが「おもしろい」と感じているかどうか、
 「おもしろい」の賛成がどれだけあって、
 それについての反対がどれだけあるかということと、
 (わたし)が(あなた)が、
 「おもしろい」と感じたということには、
 なんの関係もない。
 
 感じたことを知ったのは、感じたあとなのだ。

 (わたし)の「好きだ」は、誰にも奪われない。
 (あなた)の「うまい」は、誰にも否定されない。
 それは、(わたし)が、(わたし)であるということだ。
 (わたし)の顔が、腕が、胸が、息が、
 「ちがうよ」と言われることがないようにだ。

 (あなた)の「好きだ」が、
 (わたし)に大きな影響を与えてくれて、
 (わたし)の「好きだ」が変化するかもしれない。
 それはそれで、とても喜ばしいことだ。
 (わたし)の「好きだ」が、(あなた)の「好きだ」に、
 変化をもたらすことだって、きっとあるだろう。
 なかなかそれも、楽しいことだ。
 
 いま食った(うどん)が、うまいかまずいか。
 それを決めるくらいの自由は、捨てちゃいけない。

(2012年11月27日_ほぼ日刊イトイ新聞 _今日のダーリンより)