「信用されよう」としちゃぁいけない。。。

 信用されることは、とてもよいことだと思うのだけれど、
 「信用されよう」としちゃぁいけない。
 つまり、自然にあなたが(わたしが)やっていることが、
 人に信用されているということなのだから、
 「信用されよう」としてやっていることは、
 ただの、「中身のないカタチ」になっちゃうからだよね。
 
 これ、むつかしいところなんだけど、
 大事なことのような気がしているんだ。
 「信用されよう」としてきたことが積み重なって、
 信用されるしかないというくらいまでに
 信用が貯ったら、信用されてもいいのかもしれない
 ‥‥のだけれど、かっこよくはないなぁ。

 でも、「信用されよう」としてじゃなくて、
 「たがいに気分よくいたい」くらいの気持ちで、
 当たり前のようにやっていたことが、
 あんまり好感度の得点を上げられなかったとしても、
 そっちのほうが、美しいような気がする。
 
 けっこうややこしいことを言ってますけれどね。
 たぶん、人間は、無意識でそういうことを思ってて、
 「信用されよう」としている人の集めた「信用」と、
 「信用されよう」としてない人の得ている「信用」とを、
 なんかちがうんだよなぁ、と嗅ぎ分けているのだろう。

・企業とか組織っていうのは、
 「機械」というか「道具」だから、
 「信用」だとか「かっこよさ」だとかについて、
 意識的、戦略的に増やそうとする。
 「機械」なんだから、これも自然なことだよな。
 
 なのに、それでも、
 「信用されよう」と目的にするんじゃなく、
 「信用」されている企業だってあるように思う。
 これは、まだぼくの希望的な想像でしかないのだけれど、
 「機械」じゃなく、それより不完全な「人間」に似せた
 会社なんじゃないだろうか。
 実際に、そういう会社は存在してきたように思うんだ。
 これは、「ほぼ日」の憧れでもあるんだよな。

(2012年11月17日/ほぼ日刊イトイ新聞/今日のダーリンより)