平等とか公平ということ。。。
・さまざまなルールというもの、
完全につくりあげるのは、とても困難です。
平等とか公平ということをよく守ろうとしたり、
多数を尊重し少数を軽んじないなどと考えていると、
ほんとうになにひとつできないことになりそうです。
平等やら公平やらを先に考えたら、
それを完全にやりおおせる方法などないのに、
どうして、ぼくらはその泥沼にはまっちゃうんでしょう。
公平を考えるあまりに、
数の足りない救援物資を
配らないで返却したというようなことがあった、
というような話を、ほんとうかうそか、
聞いたことがあります
配られる側は、譲り合ったかもしれないし、
分け合ったかもしれないのですけれどね。
でも、公平を考える人が悪いと言うつもりはありません。
「正しくあろう」としたことが、
じゃまだったように思うのです。
「おれがまちがったことをしよう」という決意があれば、
破られた公平に不満を言う人に、
謝ることもできたのではなかったでしょうか。
(いや、時も場所も離れたところで、
あれこれ言うのはもうしわけないですが)
言いたいのは、なんていうか、
「失敗しよう」「まちがおう」ということなんです。
「正しいということだけをしよう」と思うと、
必ず、まちがいに取り囲まれるのです。
だったら、「御免」と言いながら、
「おれが(主語)」「まちがう(述語)」ほうが、
得られるものが大きいのではないでしょうか。
・「汝の隣人を愛せよ」ということばの「隣人」とは、
血縁でも結社でもなく、「偶然」を示しています。
隣り人って、たまたま隣りにいる人なのです。
その隣人を愛せって、ちっとも公平じゃないでしょう。
抽選で決めたというより、もっと説明しにくいのにね。
ここらへんが、おもしろいところだと思うんだよなぁ。
(ほぼ日刊イトイ新聞_8月13日_今日のダーリンより)